北千里アワー水曜日
パーソナリティーの大谷恵美です(`ー´ゞ-☆
さて、今回の【北摂伝言板】”やってんねん関大!
おおさか・まち探し”のコーナー
ゲストは 深井麗雄先生にお越し頂きました。
今回のお話は高校野球について。
でも、阪神甲子園球場のお話ではないんですっ
かつてこの北摂・豊中にあった
「豊中運動場」について
お話をしていただきました!!
え?高校野球と豊中運動場、なにか関係があるの?
と思われるかた方もいらっしゃると思います。
実は豊中運動場は
高校野球の発祥の地なんです!
この運動場には、甲子園とは違い球児たち以外にも一夏の主人公がいました。
それは高校野球を球児と共につくった市民です。
豊中運動場は、1913年に現在の阪急電鉄の沿線計画の1つとして建設されました。
大きさは東西150m・南北140mの面積2万1000平方メートルで
収容人数は5000人でした。
阪神甲子園球場の半分くらいの大きさだったんです。
そして面白いのが、まず
バックネット・バックスクリーン・外野フェンスがありません!
しかも外野は芝ではなく草むらになっていて
杭と縄で区切られていました。
そして球場の造り以外でも
面白い点がありました。
それは….
高校野球に「敗者復活戦」があったという事です!
優勝するためには1度も負けてはいけないという
厳しいルールの高校野球ですが、
甲子園以外での球場では敗者復活戦が行われた試合が
3試合ありました。
後に敗者復活戦から大会優勝者が出てしまったことで
「観客から」1度負けたチームが優勝するのはおかしい
という意見が噴出し、1917年に敗者復活戦は廃止されました。
そしてもうひとつ!
運動場で商いをすることができたんです!
豊中運動場は入場無料だったため
その懐の広さからか、試合の度に様々なものが持ち込まれていました。
サンドイッチやハム・ソーセージ、
また三ツ矢サイダーに通じる帝国鉱水が
平野水やサイダーを販売していたんです。
現在の阪神甲子園球場にも
三ツ矢サイダーボックス席というものがありますから、
企業と球場はそのころからの繋がりがあったんですね!
食べ物の持ち込みはまだ分かりますが
実は当時は審判すら持ち込みだったんです!(笑)
当時は単独審判や2~3人の審判で行われており
現在の大学生にあたる旧制高校などの野球部員や
取材に来た記者が飛び入りで審判を頼まれることもあったらしいです。
また、阪神甲子園球場とは違い
豊中運動場では市民が様々なスポーツを行ってきました。
こうして色々な話を伺うと
やっぱり「市民が」作った球場なんだと
改めて思いますね。
そんな豊中運動場ですが
現在は住宅地になっています。
その歴史を伝えるものは、豊中駅と豊中運動場を繋いだ一本道と
メモリアルパーク、そして二軒の民家の塀です。
この塀を持つ家主の方は、「阪神淡路大震災を経験し、
多くの時間を経た煉瓦にはヒビが入り、
時間がたつにつれて色も変わっていくが
今ある場所にずっと残したい」と語ってくれました。
地元企業・観客・塀の持ち主、
彼らがいなければ高校野球は戦後にやっと誕生し
日本の文化として浸透することも無かったかも知れません。
深井先生は高校野球を今年観に行かれたそうですが、
オリンピック期間中にも関わらず
凄い人の多さだったそうです!
私はまだ1度も行ったことがないので
来年こそは高校野球を観に行きたいと思います!
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今週もお聴きいただき
ありがとうございました!
それではまた来週、
さようなら~(* ̄∇ ̄)ノ
『北千里アワー・水曜日』
毎週月曜日~木曜日午後4時~6時ON-AIR中♪
(北千里サテライトスタジオ)