番組への
メッセージ

2021年10月11日(月)SENRI・STREET

皆さん、こんにちは!
SENRI・STREET 月曜日担当の本田かおりです。

1回目の放送はいかがでしたか。

「こんなのみぃつけた」では、
「山二ふらっと吹田あるき ご近所編」についてお話ししました。

山二地区公民館で開催された「山二ふらっと吹田あるき ご近所編」に参加当日は、
朝からほんとによく晴れて気持ちのいい一日でした。
山二地区公民館は、JR京都線千里丘駅から徒歩7分のところにあります。

午前9時に集合して、点呼を取りA班とB班に分かれて出発しました。
私はB班です。
当日の参加者は、13名。私以外の12名の方々は、
私よりも年齢は大先輩の方で、元気いっぱいです。

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最初の訪問地は新芦屋上にある「新芦屋古墳」です。

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新芦屋古墳は、1978年(昭和53年)に、
宅地造成中に発見されましたが、墳丘の大部分は失われていました。
一辺20メートルの方墳と推定されていて、内部主体は木材により
墓室を構築した木質墳という珍しい古墳です。
木質墳は墓室を意図的に焼くことがあり「かまど塚」と呼ばれていますが、
この古墳では火葬の痕跡はなかったそうです。
吹田市立博物館に大きく展示解説があります。

次に、千里丘北にある「千里丘稲荷神社」に行きました。

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ここは、三宅城の城主・三宅(みやけ)出羽(でわの)守(かみ)国村(くにむら)が、
今の茨木市にある三宅城の鎮守として場内に祀っていた神社を、
三宅城の落城により、家老職の高橋次郎(じろう)左(さ)衛門(えもん)
政(まさ)近(ちか)が、現在地に遷座(せんざ)したもので、
高橋家の末裔により祀られているそうです。
神社の小山は、かつて大坂・堂島の米相場を飛脚より早く伝える
「旗振り通信」の中継地と伝えられます。

山二地区は、摂津市と茨木市に接していて、
ちょっと歩いて気が付くと吹田市ではなくなっているというところにあります。

少し歩いて、次の訪問地は茨木市蔵垣内にある「井於(いお)神社」です。

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延喜式(えんぎしき)神名帳(じんみょうちょう)に
「ヰノヘノ(ゐのへの)神社」と記載されていて、
千年以上の昔に鎮座していたそうです。
もともとは、三宅村宇野辺に鎮座し、「井於連(いのへのむらじ)」が
氏神として崇敬した井の神と呼ばれる水や泉の神で
三宅郷の田畑の灌漑用水を守る神として信仰されていました。
今の場所には1452年に遷座されたそうです。

次に、おなじ蔵垣内にある「万福寺」
浄土真宗本願寺派の寺院で、境内に茨木市指定文化財、
考古資料第7号指定の「塔(とう)心(しん)礎(そ)」があります。
また、上面には「盃状(はいじょう)穴(けつ)」がたくさん彫られています。
「盃状(はいじょう)穴(けつ)」とは、
岩石や石の構造物などに彫られている盃状(さかづきじょう)の穴のことで、
再生や不滅のシンボルとして、信仰されているそうです。

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次に、「三宅城跡標柱と蔵垣内公園」です。
三宅城は、平安時代からの在地領主である三宅氏の居城で、
永正元年(1504年)から永禄5年(1562年)まで58年間続いていたそうです。

次に、摂津市千里丘東にある「勝(しょう)久寺(きゅうじ)」
浄土真宗本願寺派・西の寺院で島中(しまじゅう)
南組(みなみくみ)に属するお寺だそうです。

次に、同じ千里丘東にある「流れの馬場跡」
元亀(がんき)元年(1570年)から本願寺と織田信長が戦った石山合戦で、
本願寺の末寺ある勝久寺の住職頓(とん)恵(けい)は、
摂津・河内・和泉の僧侶数千と石山本願寺に立てこもり、
その後天正8年(1580年)3月に本願寺と信長は和睦しましたが、
安堵の思いで法義談合を行っていた同年5月28日に
信長軍の不意打ちに会い堂舎を焼き払われて、多くの門徒たちが殺害されたそうで、
あたり一面は血の海になり寺の前方を流れる境川を
「流れの馬場」の古戦場として伝えられています。

そのほか、坪境石、弥栄(やさか)の樟(くす)、蜂(はち)熊(くま)
山蜂前(ぶぜん)寺を回る約9キロメートルのコースでした。

小道を抜けたところに有ったり、いつも通っているところなのに気づかなかったり、
案内してもらわなければわからない場所が多々ありました。
主催してくださり、案内してくださった方々、
縁あってご一緒した方々、ありがとうございました。
今後、山二地区公民館ではウォーキングイベントなど多数あるそうです。
吹田市広報に掲載されていますし、山二地区公民館までお問い合わせください。

今日は「山二ふらっと吹田あるき ご近所編」をご紹介させていただきました。


『SENRI・STREET』
月曜〜木曜日13:00~14:00放送中!